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2021.07.30
中野は神奈川県の一部だった!?中野村から中野区までの道のりと歴史
皆さんは「中野」という地名についての由来はご存知でしょうか? 中野という地名が初めて記述に登場したのは、平将門の天慶の乱(939年)であると言われています。 その際に「武蔵中野」という地名が出てきており、現在の中野に当たると言われています。 この「武蔵中野」ですが、東京西郊一帯は「武蔵野」と呼ばれるススキなどが密生した原野であり、その「武蔵野の中央」に位置するという意味で『中野』という地名が誕生したそうです。 江戸時代にはすでに「中野村」が存在していたとされ、徳川綱吉が「生類憐れみの令」を発令し、中野区役所や中野セントラルパーク付近は広大な犬屋敷として10万匹もの“お犬様”が駆け回っていたことでしょう。 明治22年には町村制が施行され、中野村、本郷村、雑色村が統合され「中野村」に。 明治30年、東京府豊多摩群(現在の中央、中野、本町、南台、弥生町、上高田の一部にあたる場所)に、中野町(なかのまち)が誕生します。 そして昭和7年10月、東京市は市域拡張を実施し、中野町と野方町から一文字ずつ取った「中野区」が誕生しました。 明治28年に「中野村役場」が建てられ、昭和11年までの間に「村役場」→「町役場」→「区役所」と名前と規模を変え、中野のまちを作り上げてきました。 役場は中野坂上にある宝仙寺の境内にあったとされ、今は境内の石碑にその頃の面影を見ることができます。 中野村時代、中野一帯は多くの行政管轄に移り変わる時期がありました。 明治元年に武蔵県、明治2年には品川県(現在の練馬区・杉並区・中野区・新宿区・渋谷区・ 目黒区・品川区・大田区・世田谷区、多摩地区の東部・南部、埼玉県・神奈川県の一部)に、そして明治4年に品川県が廃止され、ついに東京府に。 しかし、明治5年に中野村はなんと神奈川県に移管されていた時期も! この時代の移動手段は主に徒歩だったこともあり、役所の用事を行うために横浜まで向かわなければならず、村々から「東京府に戻してほしい」との嘆願運動なども行われ、わずか3カ月で東京府に再び仲間入りしたのでした。 このまま中野が神奈川県の一部のままだったら・・・と考えると、とてもややこしい感じがありますね。 区役所はもちろん、都庁からもほど近い場所に位置する今の「中野」を思い浮かべると、なんだか感慨深いものを感じる、中野の歴史でした。